ブログ京橋店

2017.11.27

日本の食文化史

日増しに寒さが身にしみるようになりました。

皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 

前回は『料理』と『調理』についてお話をさせて頂きました。

今回は日本の食文化史についてお話しをしてみます。

 

京橋店11月ブログ

 

 

まず、日本の食文化を作り上げてきた条件です。

1、地理的に四季の変化と山や海の幸に恵まれていた。

 

2、島国であることが、外国文化を選択的に取り入れることを可能にした。

 

3、山岳に富み、平地の少ない地形が河川で区切られ高い峠を越えなければ隣の村に行けない小さな独立の生活形態を形成し、文化の交流も閉ざされて地域性豊かな固有の食文化が作られた。

 

などといったことが挙げられます。

 

 

次に時代の流れによって出来た食文化です。

 

縄文時代→自然物雑食(狩猟、漁撈、魚をすくって捕ることなど)調理方法は焼く、あぶる、煮るが中心で、イノシシ、シカ、まぐろ、かつお、いわし、鯛などが多く食べられ、さけ、いか、うにも食べられました。

 

弥生時代→稲作農業の定着による農耕の発達。米食の始まりにより、肉食は副食として扱われました。酒が造られ、海水から塩を作り、塩を用いてヒシオ(醤)が作られました。醤の利用により食べ物を美味しく多様にしました。

 

飛鳥~奈良時代→大陸文化の影響で飲食物や調理法に油を用いる唐風のものが多く取り入られ食品数も豊富になりました。仏教が大陸から渡来し、貴族は殺生禁断の思想により肉食禁止になりました。仏教の普及の少ない農民、庶民の間では肉食の習慣はまだ残っていました。

 

平安時代→貴族文化が栄え、年中行事が重要視されました。元旦行事、桃の節句、端午の節句、七夕祭り、お盆、十五夜など、貴族の食生活に与えた影響は大きく、儀式的、形式的な食生活をもたらし、見た目の美しさを重視する日本料理の性格の基礎となりました。

 

鎌倉時代→農作物の種類も多くなり、耕地も拡大し、豆腐、納豆、麩、が作られるようになり、味噌作りも広まりました。そして、精進料理が発達し3回食が発生し始めました。

 

室町時代→料理の流派(四条流、大草流、進士流など)の形成され、本膳、二の膳、三の膳の料理が提供されて、豪華な内容の食事がなされました。食べ方、箸の扱い、包丁、まな板の扱い方など食事作法が出来上がりました。茶の湯は禅宗の寺院から伝わり、貴族の間で喫茶の風習が流行し、さらに進んで茶道として作りあげられました。

 

安土・桃山時代→1543年ポルトガル船が種子島に漂着し南蛮文化が輸入されて食生活に大きな影響を与えました。カボチャ、ジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシ、スイカやワイン、ウイスキーなどが伝来し、ガラス容器やナイフ、フォーク、スプーンなどの食器も輸入されました。天ぷらや菓子などは南蛮料理の影響を受けたものです。

茶の湯が流行し、懐石料理が起こりました。

 

江戸時代→食糧の安価な大量輸送は困難し、米や一部の食品以外は大多数の人口が完全自給のかたちで食糧生産し、国内各地の気候と風土により食生活が規制されていました。

本膳料理、会席料理が盛んになり、中国から伝来の普茶料理、卓袱料理も日本風に変えられて和食が完成しました。この間、食文化の中心は上方から江戸へ、江戸から再び上方へと動きました。

 

地方独特の名物料理(郷土料理)が発達し、専門料理(飲食店)が発達し、天ぷら、蒲焼き、そば、うどん、江戸のにぎり寿司や関西の押し寿司が大衆化しました。

 

そして、八代将軍徳川吉宗の命により嶺岡(現・千葉県南房総市大井地区)に幕府直轄の牧場を設け、インド白牛を放牧し、その乳でバターを作りました。

 

和食では牛乳を使った料理を「嶺岡・・・」と呼ぶようになり、徳川吉宗の料理人が胡麻豆腐の要領で胡麻と牛乳と葛で作った嶺岡豆腐は今でも利用されています。

 

 

 

今回は食文化と歴史についてお話をさせて頂きました。いかがでしたでしょうか?

 

ご清覧、誠にありがとうございました。

 

香水亭京橋店料理長 越智健介

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