ブログ六本木店
2016.12.14
料理と米と教育

料理の原点、米。
これが美味くないと全てが崩れる。美味しい米を炊くのが、料理人の心意気。
我々料理人、中居は、料理屋として晴れの日の料理をお客様に提供し『おもてなし』をすることを生業としている。すなわち我々はお客様が笑顔で帰ることを喜びとしているのではなくてはならない。
その為に、料理人は方々を馳せ探しまわり奔走する。
これが『馳走』と言う言葉であり。料理の七割から八割を占める。残り二割から三割は料理技術である。津々浦々素材を吟味して、素材が生きるように料理する。必要最低限の技術にとどめるのが食材を活かす事になるのである。必要以上に、こねくり回すのは食材をころす事にほかならないのである。器との調和も目指し日々美的感覚も磨いてゆく事も怠ってはならない。美術品や調度品などを見て目を磨いて行き、食材、器、室礼との中庸を保ち用の美を身につけて行かねばならない。
その為に、中居は店を清め清潔に保ち、室礼、空気感、室温などにも気を配る。料理の真贋にも、精通し四季折々の移ろいも感じ取り、所作振る舞いも研鑽し館の空気を作るのである。
その中でも和食の料理において、原点となるのが、米である。
懐石のもてなしの原点が炊きたての姫飯であり、もてなしの最高峰とされる。
御茶懐石において常に口切に出されるのは、『炊き立ての姫飯、汁、御向う』が、基本となり亭主の力の入れ所なのである。客の到着のタイミングの合わせ仕上げていき最高のおもてなしを表現し、わびさびを踏まえて芸術の域まで昇華させて行くこれが本来の懐石の姿なのである。
私達は、お店用に設えてもらった田畑から米を仕入れる。
そして、専属の職人、主に店の若手が炊いてゆく。
毎日炊いてゆく、米の乾燥具合、日々の湿度など自然の動きを感じながら最高のおもてなしを目指し炊いてゆく。飽くなき探求の世界。そこから基礎を身につける。おもてなしの大変さや美味しいと言ってもらった時の喜びを感じる糸口となる。料理とは常に繰り返し繰り返し、重ねに重ねて覚えていく。飽きてしまったらおしまいである。ただ、ひたすら米を炊く、常に妥協しないように癖をつける。飽きてしまった時点で料理はただのお飾りになる。つまり、料理は飽きて慣れてしまう事との戦いである。
きつい仕事?楽しい仕事?貧しい仕事?煌びやかな仕事?考え方はその人間次第、同じ仕事が貧しくなる人もいれば、煌びやかになる人もいる。後者の人間はたとえ要領が悪くても何をしても輝く、魅力のある人間になる。前者の人間はたとえ要領がよくても、気が入らず目の前の仕事に力が入らない。貧しい人間になるのである。
ただ食べ物を作る人間にならないように、 美味しいものを作りもてなす事、それに尽きることを感じて育たなければならない。
たかが飯炊きと軽んじる職人は、全てが雑であり和食のおもてなしが出来ない人間であることは言うまでもなく、、、其れ相応の物しか作れない。
逆に言えば米を常に美味しく炊けるという事は、修行を重ね和食の職人になった時に料理の全てが素晴らしい事が多いのである 和食は、字のごとく全てのメニューの総和である。基本的に会席(懐石とは別物)は先附、御造り、御碗、焼肴、焚物、酢肴、御食事と構成されるがメインは置かず全体のバランスにより美味しいと感じさせる。米や漬物が美味しくなくては成り立たないのである。そして、我々日本人が慣れひたしむ、米の炊き方の良し悪しが一番印象に残り実力が問われるのである。
米という 基礎のおもてなし、その大切さが全てを作る。
私たちは、一人一人のお客様に毎日、魂を込めてゆく。
そんな職人になり、そんな職人を育てて行きたい。
瓢喜香水亭六本木本店 料理長 鶴水与作